
「ゴッホより普通にラッセンが好き」でなぜ我々は笑ったのか
ごめん。先に言っておく。私はラッセンより普通にゴッホが好きである。そこは譲らない。だからこれは、ラッセン擁護の記事ではない。ラッセンも素晴らしい、という話でもない。もちろん、ラッセンを好きな人を笑う記事でもない。
むしろ逆である。笑った側の話である。
あのフレーズで、なぜ我々は笑ったのか。
ゴッホとラッセンのどちらが上か。
そういう話にしてしまえば、話はすぐ終わる。
しかし、たぶん終わらない。
我々が笑ったのは、ラッセンを笑ったからだけではない。
もっと正確に言うなら、ラッセンを笑ったつもりで、自分たちの採点表を笑っていたのかもしれない。
「ゴッホが好き」は点が入りやすい
ゴッホが好き。これは、言いやすい。少なくとも、美術館の近くではかなり言いやすい。
ひまわり、星月夜、自画像、アルル、耳、手紙、孤独、弟テオ、狂気、貧困、死後の評価。
ゴッホには、作品だけでなく、物語が付いている。
しかも、その物語は美術鑑賞の場で非常に強い。
苦しみながら描いた人であり、生前には十分に認められなかった人であり、それでも描いた人である。
絵具の厚み、色のうねり、筆致、黄色、夜、畑、空。
それらはもちろん作品の魅力である。
だが同時に、「ゴッホが好き」と言うだけで、こちら側が少し美術をわかっている人に見える。
ここが厄介である。本当に好きだから言っているのか。それとも、好きと言うと点が入りやすいから言っているのか。
たいていの場合、その二つは混ざっている。
そして、混ざっていること自体は悪くない。
ただ、混ざっている。
ラッセンは、点が入りにくい
ラッセンが好き。こちらは、少し言いにくい。少なくとも、美術館の白い壁の前では言いにくい。
イルカ、海、月、光、宇宙、きらきらした水面、わかりやすい幻想、ポスター、版画、ショッピングモール、リビングに飾れる美しさ。そして、どうしても拭いきれない商売の影。
そういう言葉が、すぐ近くに来る。
ラッセンの作品が実際に何であるかより先に、ラッセンという名前にまとわりついた空気が来る。
商業的で、わかりやすく、大衆的で、キッチュで、売れていて、飾りやすい。それは、美術制度の中では点になりにくい。
むしろ減点されることすらある。
もちろん、これはラッセンだけの問題ではない。
「わかりやすく綺麗なもの」は、しばしば疑われる。
綺麗すぎる。売れすぎる。説明が簡単すぎる。気持ちよすぎる。部屋に置きやすすぎる。
美術の世界では、ときどきその「すぎる」が、罪のように扱われる。
我々は、わかりやすい美しさが嫌いなのか
では、我々はわかりやすい美しさが嫌いなのか。
たぶん、違う。
鮮やかな色は好きである。
細かい描写も好きである。
動物も好きである。
水も、光も、花も、鳥も、金色も、透明感も、幻想も、普通に好きである。
ただし、それをどの名前で好きと言えばよいのかを気にしている。
ここが問題である。
わかりやすい美しさそのものを嫌っているのではない。
わかりやすい美しさを、恥ずかしくない名前で好きと言いたいのである。
美術史の名前があれば、素朴な快楽は少し上等に見える。
名前がなければ、同じ快楽は少し恥ずかしく見える。
思い当たる人はいないだろうか。たとえば、いや、やめておこう。
この差は、作品だけからは出てこない。
見る側の制度から出てくる。
笑いは、採点表を露出させる
あのフレーズが笑えるのは、言ってはいけないことを言ったからである。
ゴッホよりラッセン。しかも、普通に。この「普通に」が危ない。評論ではない。反制度の宣言でもない。逆張りでもない。ただ、普通に好き。
その軽さが、我々の採点表を乱す。
ゴッホが上で、ラッセンが下。美術館が上で、リビングが下。原画が上で、版画やポスターが下。苦悩が上で、快さが下。難しさが上で、わかりやすさが下。
そういう見えない表が、笑いの中で一瞬だけ見える。
笑いは便利である。
相手を笑っていることにできる。
しかし本当は、自分の中の表が見えてしまったことを笑っている場合がある。
ラッセンを笑ったのではない。
「ゴッホ」と答えれば点が入ると思っている、自分たちの採点表を笑ったのだ。
好きに、正解はあるのか
美術鑑賞は、正しい「好き」を当てる試験ではない。
だが、我々はしばしば試験のように振る舞う。
この作家を好きと言えば、わかっている人に見える。この作家を好きと言うと、少し恥ずかしい。この作品は、まだ好きと言ってよい。これは、言わない方がよい。
そういう小さな検閲がある。
それは他人から来ることもある。
自分の中に住み着いていることもある。
だから、ラッセンが好きだと言える人は、場合によっては強い。
もちろん、その強さは美術史上の評価とは別の話である。
ただ、自分の好きに余計な採点者を入れない強さはある。
逆に、ゴッホが好きだと言う人も、少し疑った方がいい。
ゴッホが悪いのではない。ゴッホはよい。非常によい。
しかし、「ゴッホが好き」と言った瞬間に自分が少し偉くなったような気がするなら、その気持ちは疑った方がいい。
作品を見ているのか。作品を見る自分を見ているのか。その二つは、簡単に混ざる。
口元を見る
美術館で作品を見るとき、たまに自分の口元も見てみるとよい。
いま自分は、何を安心して好きと言えているのか。何を、少し照れながら黙っているのか。何を、好きなのに別の名前を借りて言っているのか。何を、嫌いと言うことで賢く見せようとしているのか。
そこにも、鑑賞はある。
ゴッホが好きなら、好きでよい。ラッセンが好きなら、好きでよい。
ただ、その好きが、どの採点表の上で口にされているのか。
一度だけ見る。美術鑑賞は、作品だけを見ることではない。
作品の前で、自分の中の制度がどう動くかを見ることでもある。
あのフレーズで笑ったのなら、その笑いもまた、鑑賞の入口である。
笑った自分を少しだけ疑う。そこから、ようやく自分の好きが始まる。
