
贋作とは何か - レンブラントとかいう厄介おじさん -
あなたはこれが本物だから好きですか。
贋作の話をすると、たいていは悪い人間が出てくる。
偽の署名を入れる。来歴を作る。古い絵を、もっと有名な名前に見せかける。買う側をだます。
もちろん、それは悪い。
金銭が動くなら、なおさらである。美術市場では、名前ひとつで値段が変わる。レンブラントであれば億になるかもしれないものが、弟子の作品であればまったく別の値段になる。だから、嘘の名前をつけることは、ただの言い間違いではない。
しかし、贋作の嫌なところは、そこだけではない。
贋作は、だました人間の問題であると同時に、見ている人間の問題でもある。
その絵が好きだったのか。それとも、横に置かれた名前が好きだったのか。この問いが残る。
贋作とは、嘘の絵ではない
贋作とは何か。
単純に言えば、他人の作品であるかのように作られたり、売られたりする作品である。
けれど、鑑賞の問題として見るなら、もう少し冷たく言える。
贋作とは、嘘の絵ではなく、嘘の名前を背負わされた絵である。
絵の具は、そこにある。線も、色も、画面もある。古い絵なら、古い時間もある。
だから、贋作だからといって、画面が急に消えるわけではない。昨日まで美しいと思っていた絵が、今日から物理的に醜くなるわけでもない。
変わるのは、名前である。
そして、その名前が変わった瞬間に、私たちの見方も変わる。
ここが厄介である。
レンブラントとかいう厄介おじさん
レンブラントは、この話をするには厄介すぎる。厄介すぎるので、ちょうどよい。
レンブラントには、本人が描いたとされる作品があり、工房の作品があり、弟子の作品があり、レンブラント風の作品があり、後世の模写がある。
かつてレンブラント本人作とされ、後に外された作品もある。外されたあと、また戻ってくる作品もある。
もちろん、これはレンブラントだけの問題ではない。古い絵には、工房があり、弟子があり、模写があり、後世の補筆があり、修復がある。作者名は、絵の上にただ貼られている札ではなく、研究と市場と美術館と所有者が長い時間をかけて動かしてきたものでもある。
それでもレンブラントは、やはり面倒である。本人の名声が大きく、工房と弟子の層が厚く、画風の変化も大きい。そして何より、レンブラントという名前が強すぎる。名前が強いと、絵の前に名前が立つ。
絵は変わらない。変わるのはラベルである
ある絵がある。昨日まで、それはレンブラントだと言われていた。今日から、それはレンブラントの工房作だと言われる。では、絵は変わっただろうか。変わっていない。絵の具の位置は同じであり、暗いところは暗いままで、光の当たり方も同じである。人物の顔も、手も、衣服も、昨日と同じである。
けれど、ラベルが変わる。
ラベルが変わると、値段が変わり、扱いが変わり、展示室での立ち位置も変わる。人の目も変わる。
昨日まで「さすがレンブラント」と言われていた筆触が、今日から「弟子らしい未熟さ」と言われるかもしれない。
昨日まで「深い心理描写」と言われていた顔が、今日から「師の模倣」と言われるかもしれない。
絵は変わっていない。変わったのは、絵の横に置かれた名前である。それなのに、私たちの感動は動く。
鑑定は、神託ではない
ここで誤解してはいけない。鑑定などどうでもいい、という話ではない。むしろ逆である。鑑定は大事である。
素材、板、キャンバス、下絵、絵具の成分、修復の痕跡を調べる。来歴を追い、過去のカタログを読み、同じ時代の作品と比べる。
そうした作業がなければ、美術史はただの言い伝えになる。
ただし、鑑定は神託ではなく、一度決まったら永遠に動かないものでもない。
研究が進めば、見方は変わる。技術が進めば、前には見えなかった層が見える。失われていた資料が出てくることもある。写真だけで判断されたものが、実物を見て評価を変えることもある。
本物と偽物は、紙の上ではきれいに分けられる。
しかし現実には、その間に多くの言葉がある。レンブラント作、レンブラントに帰属、レンブラント工房、レンブラント周辺、レンブラントに倣う、レンブラントの後の模写。
この言葉の差は、細かいようで大きい。
見る人にとっても、市場にとっても、美術館にとっても、決定的に大きい。
贋作が暴くのは、偽物の絵だけではない
贋作が見つかると、人は怒る。当然である。嘘があり、金銭が動き、信用が壊れる。美術館なら組織の判断も問われるし、コレクターなら自分の目も問われる。
だが、贋作が本当に暴くものは、偽物の絵だけではない。
本物という言葉に寄りかかっていた、私たちの鑑賞である。
その絵を見たとき、何を見ていたのか。光なのか、顔なのか、筆触なのか、時間なのか。それとも、レンブラントという名前を見ていたのか。
もちろん、名前を見ること自体が悪いわけではない。
名前も作品体験の一部である。
誰が描いたかを知ることで、見えるものはある。時代を知ることで、画面の意味は変わる。来歴を知ることで、その絵がどう生き延びてきたかも見えてくる。
問題は、名前を見ていることに気づかないことである。
名前に動かされているのに、自分は純粋に画面だけを見ていると思い込むこと。
そこに、贋作は冷たい水をかける。
「本物だから好き」と「好きだったものが本物」は違う
本物だから好きなのか。好きだったものが、たまたま本物だったのか。この順番は、思っているより重い。
前者では、名前が先に立つ。
後者では、反応が先に立つ。
もちろん、人間はそんなにきれいに分けられない。美術館で名札を見ずに絵を見ることは難しい。展示室の照明も、額も、警備も、解説も、すべてが「これは見るべきものです」と言ってくる。
だから、名前を消して見ろ、というのは少し無理がある。
ただ、名前に全部を明け渡さないことはできる。
レンブラントだから見る。
それはよい。
しかし、レンブラントでなくなった瞬間に何も見えなくなるなら、たぶん見ていたものの多くは絵ではなかった。
それは責められることではない。
ただ、自覚しておいた方がよい。
名前の弱い場所へ行く
ここで、骨董市の話になる。骨董市では、レンブラントはたぶん落ちていない。落ちていると思って行く場所ではない。むしろ、そこがよい。骨董市には、名前の弱いものがある。
誰が作ったのかよく分からない皿、どこの家にあったのかよく分からない箱、妙に気になる置物。時代はありそうだが説明の少ない道具。下手なのか味なのか分からない絵。
美術館のようにラベルが強くなく、市場のように有名作家の名前が前に出てこない。だから、そこで少し試せる。これは高そうだから好きなのか。古そうだから好きなのか。有名そうだから好きなのか。それとも、なんか好きなのか。
骨董市は、本物を見抜く練習の場所ではない。
名前が弱い場所で、自分の好きがまだ立っていられるかを見る場所である。
贋作の反対は、本物ではない
贋作の反対は、本物である。普通はそう言う。しかし、鑑賞の話としては、少し違う。贋作の反対にあるものは、本物だけではない。自分が何に反応しているのかを、少し分かっている状態である。
名前かもしれない。歴史かもしれない。値段かもしれない。保存状態かもしれない。画面かもしれない。古さかもしれない。たまたま自分の生活に引っかかっただけかもしれない。
それでよい。人は、純粋に絵だけを見ることなど、たぶんできない。しかし、自分が何に引っぱられているのかを少し知ることはできる。
贋作とは、嘘の名前を背負わされた絵である。そして同時に、それは、名前に引っぱられている自分を見せる鏡でもある。
レンブラントとかいう厄介おじさんは、いまもその鏡をこちらに向けている。
絵は変わらない。変わるのは名前である。では、変わったのは、作品だったのか。それとも、私たちの目だったのか。
