
世界で最初の「芸術家」- どこかの村のレオナルド -
芸術家は、最初からいたのか。
絵を描く人はいた。像を彫る人もいた。建物を作る人も、器を作る人も、壁を飾る人もいた。
しかし、それはそのまま、私たちがいま言う意味での「芸術家」だったのだろうか。
ここで少し乱暴なことを言う。
世界で最初の芸術家は、レオナルド・ダ・ヴィンチである。もちろん、これは史実としての最初ではない。
レオナルド以前にも、すぐれた制作者はいた。名を残した画家も、彫刻家も、建築家もいた。古代にも中世にも、驚くべき作品はある。
だから、厳密に言えば、レオナルドが最初であるはずがない。
それでも、あえてそう呼んでみる価値がある。
美術史を語るとき、どこかに紀元元年を置かないと、話は始めにくい。
その紀元元年として、レオナルドはかなり都合がよい。いや、都合がよすぎる。
「作る人」と「芸術家」は同じではない
作る人と芸術家は、同じではない。
作る人は、依頼されたものを作る。教会のために描き、王のために作り、共同体のために飾り、儀式のために整え、生活のために使えるものを作る。
そこでは、作品は何かに仕えている。神に仕え、政治に仕え、身分に仕え、秩序に仕え、生活に仕える。
もちろん、それが悪いわけではない。
むしろ、美術の多くはそこから始まっている。美術は、最初から自由な個人表現として空に浮いていたのではない。信仰、権力、儀礼、都市、共同体、実利。そういうものの中で作られてきた。
そもそも art という語も、ラテン語の ars、つまり技術やわざにさかのぼる。
美しいものを勝手に作ることではなく、何かを成立させるための技術である。
そのとき、作品に求められる中心は、何を正しく伝えるかである。
教義を伝え、権威を示し、物語を読ませ、身分を見せ、祈りの場を整える。
ここでは、作者の個人的な癖や逸脱は、必ずしも歓迎されない。
むしろ、余計なものになりうる。
Logic だけで足りていた時代
作品には Logic がある。何を表すのか、何のために置かれるのか、誰に向けられているのか、どう読まれるべきなのか。
宗教画であれば、聖書の場面や教義がある。肖像画であれば、身分や権威がある。建築であれば、機能と秩序がある。
それらを正しく伝えることは、強い価値だった。
そこでは、作者は透明である方がよいこともある。
透明な作者。よい職人。正しく作る人。必要なものを、必要な形で、必要な場所へ置く人。
それは立派な仕事である。
ただ、そこではまだ、作品を見る理由が「その人が作ったから」にはなりにくい。
大事なのは、神であり、王であり、都市であり、物語であり、注文であり、機能である。
作者は必要である。しかし、作品の中心ではない。
レオナルドは観察しすぎた
レオナルドは、観察しすぎた。ここが厄介である。
宗教画を描くために、そこまで人体を見る必要があっただろうか。
そこまで光を見る必要があっただろうか。
そこまで表情を見る必要があっただろうか。
そこまで水の流れ、植物、岩、機械、鳥、筋肉、骨、手の動き、顔のしわを見る必要があっただろうか。
たぶん、必要はなかった。
少なくとも、教義を伝えるためだけなら、そこまで過剰に見る必要はない。
しかし、レオナルドは見てしまう。見たものを描き、描くことで考え、考えるためにまた見る。
この循環が、宗教的な Logic から少しはみ出している。
レオナルドの絵は、ただ聖書の場面を説明するだけでは済まない。人物の身体があり、視線があり、空気があり、光があり、岩があり、水があり、世界をどう見たかが画面に残る。
作品が、教義や注文の器であるだけではなくなる。
そこに、レオナルドの見すぎが混ざる。
ノイズが価値になる
本来、ノイズは余計なものである。
目的から見ればいらないものであり、説明を邪魔するものであり、正しい形式からはみ出すものである。
だが、美術史のどこかで、そのノイズが価値になる。
作者の癖、観察しすぎ、未完成、執着、迷い、実用から外れた探究、注文の目的を超えてしまう過剰。
そういうものが、作品を見る理由になる。
ここで、芸術家が生まれる。
芸術家とは、ただ上手に作る人ではなく、その人が作ったこと自体が作品を見る理由になる人である。
誰が作ってもよいのではない。この人が世界をどう見たのか。この人が何を余計に見てしまったのか。この人のノイズが、なぜ消えずに画面へ残ったのか。
そこが見られるようになったとき、職人の仕事は、芸術家の仕事へずれる。
どこかの村のレオナルド
レオナルド・ダ・ヴィンチという名前は、少し変である。
ダ・ヴィンチとは、ヴィンチの、という意味である。つまり、村から来たレオナルドである。
もちろん、当時の名のあり方を、現代の名字の感覚で読むべきではない。
ただ、この「どこかの村から来たレオナルド」という響きは、少しよい。
最初から神話ではない。最初から美術館の壁に掛かっていたわけでもない。最初から天才という商品名で流通していたわけでもない。
ヴィンチ近くに生まれ、フィレンツェでヴェロッキオの工房に入り、絵画、彫刻、技術、機械的な仕事に触れ、やがてミラノで宮廷に仕え、画家であり、技術者であり、舞台装置を考える人であり、軍事や水利にも関わる人になる。
つまり、レオナルドは最初から「美術館の芸術家」ではない。むしろ、職能の束である。
絵を描き、図面を引き、機械を考え、身体を調べ、祝祭を設計し、水を観察し、都市を考える。
この職能の束が、あとから「芸術家」という名前で見られるようになる。
ここが重要である。芸術家という名前が先にあったのではない。レオナルドの過剰を、後の時代が芸術家という名前で受け取ったのである。
科学者でもあり、芸術家でもある、では足りない
レオナルドは、科学者でもあり、芸術家でもあった。
よく言われる。
しかし、その言い方は少しきれいすぎる。
まるで、科学者という箱と芸術家という箱が先にあり、レオナルドがその両方に入っていたように聞こえる。
たぶん、そうではない。
レオナルドの中では、見ること、描くこと、測ること、考えること、作ることが、まだ分かれていない。
描くことは、記録であり、観察であり、設計であり、仮説であり、欲望である。
だから、彼の素描は厄介である。
作品の下準備にも見え、科学の記録にも見え、技術者の図面にも見え、遊びにも、妄想にも見える。
しかし、その分けにくさこそが、レオナルドである。
分けられないものが、後から「天才」と呼ばれる。
「アテナイの学堂」は、後輩が置いた祭壇である
もしその紀元元年に、レオナルドの生年月日以外の目印を置くなら、ラファエロの《アテナイの学堂》が完成したとされる1511年頃も候補になる。
そこには、古代の哲学者たちが集められている。
理性、学問、対話、身体、建築、視線。
ルネサンスが、自分たちは古代の知を受け取り直しているのだ、と大きく宣言しているような画面である。
そして、その中央のプラトンは、しばしばレオナルドの顔を借りていると言われる。
本当にレオナルドそのものかどうか、また手前のヘラクレイトスが本当にミケランジェロを借りているのかは、ここでは大きな問題ではない。
大事なのは、後輩の世代が、レオナルドの顔をそこに置きたくなることだ。
レオナルドは、ただの画家ではない。
ただの技術者でもない。
ただの職人でもない。
世界を見る方法そのものを、ひとつの人格として背負わされる。
《アテナイの学堂》は、レオナルドが最初の芸術家だったことの証拠ではない。
むしろ、すぐ後ろを歩く世代が、レオナルドをそういう場所へ置きたくなったことの証拠である。それは芸術家ラファエロのノイズである。
歴史的事実よりも、歴史の欲望に近い。
芸術家とは、役割の名前である
芸術家とは、職業名である前に、役割の名前である。
作るだけでは足りない。
上手いだけでも足りない。
注文に応えるだけでも、まだ足りない。
その人の見方が、作品を見る理由になること。
その人の過剰が、消されずに残ること。
その人でなければならなかった、という物語が発生すること。
そこに、芸術家という役割が立ち上がる。
だから、レオナルドを世界で最初の芸術家と呼ぶのは、事実の主張ではない。
美術史を見るための装置である。
レオナルド以前にも作る人はいた。
レオナルド以後にも、宗教や権力や実利のために作られるものは続く。
いまでも続いている。
作品は、完全に自由な個人表現だけでできているわけではない。
むしろ、信仰、制度、市場、宣伝、共同体、推し、国家、企業、生活に何度でも結び直される。
それでも、レオナルドのところで、ひとつ見え方が変わる。
作品とは、何かを正しく伝えるものだけではない。
ある人間が、世界を余計に見てしまった痕跡でもある。
世界で最初の「芸術家」
世界で最初の芸術家は、レオナルド・ダ・ヴィンチである。
もう一度そう言ってみる。
もちろん、嘘である。
しかし、使える嘘である。
美術史には、こういう嘘が必要なことがある。
ある人物を起源に置く。
そこから前と後を分けてみる。
実際の歴史はもっと複雑で、もっと曖昧で、もっと連続している。だが、起源を置くことで、見える構造がある。
レオナルドを起源に置くと、芸術家とは何かが少し見える。
芸術家とは、上手い人のことではない。
有名な人のことでもない。
作品が、宗教や政治や実利の説明を超えて、その人の見方を帯びはじめたときに生まれる役割である。
Logic に混ざったノイズが、排除されるべき余計なものではなく、作品を見る理由になったとき。
そのとき、芸術家が生まれる。
レオナルドは、その場所に立たされるには、あまりにも都合がよい。
だから、世界で最初の芸術家と呼んでみる。
正確ではない。
だが、美術史を見る目は、少し変わる。
