
絵の具を買うのはズルなのか - 表現はテクノロジーと共にある -
絵の具を買うのはズルなのか。
変な問いに見える。
絵の具は買うものだ。画材店に行けば売っている。油絵具も、アクリル絵具も、水彩絵具も、日本画用の絵具も、棚に並んでいる。いまさら、それを買うことをズルだと言う人はあまりいない。
しかし、本当にそうだろうか。
もし、ある時代の画家が、自分で顔料を砕き、媒材を作り、支持体を準備していたとする。その人から見れば、チューブ入りの絵具を買い、既製のキャンバスを買い、メーカーが調整したメディウムを使う画家は、ずいぶん楽をしているように見えるかもしれない。
では、それはズルなのか。
絵の具を買うことがズルなら、筆を買うことも、紙を買うことも、カメラを使うことも、パソコンで描くことも、すべてズルになる。
たぶん、ここで見えてくるのは、ズルの問題ではない。
表現は、いつも他人の発明に乗っている、という事実である。
技術が肩代わりした作業を、私たちは当然と呼ぶ
昔の画家は、いまの画家より偉かった。そう言いたいわけではない。
ただ、表現の前に置かれていた作業の量は、時代によって違う。
顔料を探し、砕き、洗い、乾かし、媒材と混ぜ、塗れる状態にする。支持体を作り、下地を整え、乾き方を読み、保存できるかを考える。
これらは、作品の外にある雑用ではない。
色がどう立つか。表面がどう光るか。時間が経つとどう変わるか。厚く塗れるのか、薄くしか乗らないのか。どこで描けるのか。どれだけ持ち運べるのか。
素材の条件は、作品の条件である。ところが、ある作業はメーカーに移され、工場に移され、化学に移され、流通に移される。
そして時間が経つと、私たちはそれを「当然」と呼ぶ。
技術が肩代わりした作業を、私たちはいつか当然と呼ぶようになる。
チューブ絵具は、ただの容器ではない
チューブ入りの絵具は、ただ絵の具を入れる容器ではない。
絵の具を保存しやすくする。持ち運びやすくする。外で描きやすくする。必要なときに、必要な量だけ出せるようにする。
それは、制作の場所と時間を変える。
アトリエの中で作っていたものが、外へ出る。絵の具を準備する時間が短くなる。色を持ち歩ける。乾かないように管理できる。そうなれば、描けるものも変わる。
もちろん、絵具チューブだけで近代絵画が生まれた、などと言うのは雑である。
絵画は、ひとつの道具で変わるほど単純ではない。
けれど、道具が変わると、描く条件は変わる。
条件が変われば、表現も変わる。
ここを見ないまま、「手で描いたかどうか」だけを語ると、表現のかなり大きな部分を見落とす。
画材づくりは、表現の外側にある雑用ではない
では、画材を買えばよいのか。そういう話でもない。
いまでも、画材を作ることに近い場所に立っている制作はある。日本画は、その分かりやすい例である。
日本画では、岩絵具、胡粉、墨、膠などの扱いが作品に直結する。
岩絵具の粒子は、細かければ淡く、粗ければ強く見える。
胡粉は白であると同時に、下地であり、盛り上げであり、表面の質感でもある。
膠は、色を画面に定着させる。
膠が強ければよい、という単純な話ではない。弱すぎれば定着しない。強すぎれば絵具の表情が変わる。支持体、湿度、重ね方、乾き方によっても変わる。
ここでは、画材づくりは準備ではなく、表現そのものである。
色を選ぶことと、色を扱える状態にすることが、分かれていない。
だから、絵の具を買うことが遅れていて、画材を作ることが偉い、という話ではない。
逆である。画材を買う制作にも、画材を作る制作にも、それぞれの引き受け方がある。
問題は、どちらが純粋かではなく、どこまでを他人の技術に預け、どこからを自分の判断として引き受けるかである。
表現は、素材から逃げられない
絵画だけではない。
フレスコでは、壁そのものが問題になる。濡れた漆喰に顔料を置くなら、時間は待ってくれない。乾けば、もう同じ条件では描けない。
テンペラでは、顔料を何で結ぶかが画面を決める。卵を使うのか、膠を使うのか、別の媒材を使うのか。乾き方も、艶も、重ね方も変わる。
エンカウスティークでは、蝋と熱が入る。色は冷えながら固まり、表面は絵の具というより物質になる。
陶芸なら、土と釉薬と焼成が作品を決める。
染色なら、染料、媒染、布、温度、時間が作品を決める。
版画なら、版、インク、紙、圧、刷りが作品を決める。
どのジャンルでも、素材は透明ではない。素材は、作者の意図をそのまま通す管ではなく、抵抗し、裏切り、助け、思ってもいなかった形を返してくる。
その抵抗をどう扱うかが、制作である。
純粋な手仕事という幻想
自分の手で作った作品。この言い方は、強い。
たしかに、手は大事である。手の癖、速度、圧、迷い、慣れ。そういうものは画面に出る。
しかし、自分の手だけで作った作品など、ほとんど存在しない。
筆は誰かが作った。紙は誰かが漉いた。顔料は誰かが採掘し、精製し、流通させた。チューブは誰かが作った。キャンバスは誰かが織った。パソコンは誰かが設計した。ソフトウェアは誰かが書いた。電気は誰かが供給した。
自分の手は、いつも他人の手の上に乗っている。
それを忘れたとき、手仕事はすぐに道徳になる。
手でやったから尊い。機械を使ったから浅い。買った画材だから弱い。自分で作った画材だから深い。
そう言いたくなる。
だが、それは少し雑である。
深さは、苦労の量だけで決まらない。手間は価値の証明ではなく、表現の条件である。
AI はズルなのか
ここまで来ると、避けて通れない問いがある。
AI はズルなのか。この問いに、すぐ答えたくなる人は多い。ズルである。ズルではない。道具である。盗用である。表現である。表現ではない。
しかし、本当はその前に見るべきことがある。
私たちは、すでに多くのズルを画材と呼んできた。
顔料を自分で採らないこと。絵の具を自分で練らないこと。既製の紙を使うこと。写真を参照すること。プロジェクターで下図を写すこと。Photoshop で色を変えること。3D モデルを下敷きにすること。
それらは、ある時代には違和感だったはずである。
けれど、普及すれば技法になる。
ズルに見えるものの多くは、普及したあとで技法になる。
ただし、それはすべてを許すという意味ではない。
道具が強くなるほど、作者に問われることも変わる。
何を選んだのか。
何を捨てたのか。
どこを自分で決めたのか。
どこを機械に渡したのか。
その結果に、どのように責任を持つのか。
AI の問題は、ズルかどうかだけでは足りない。
どこまでを道具と呼び、どこからを作者性の放棄と呼ぶのか。
そこが問われている。
道具を使って、何を引き受けたのか
絵の具を買うのはズルなのか。
たぶん、問いの形が少し違う。
絵の具を買ったことが問題なのではない。
買った絵の具で、何を引き受けたのかが問題である。
チューブ絵具を使うなら、その便利さを引き受ける。
日本画の岩絵具を使うなら、その粒子と膠の面倒を引き受ける。
写真を使うなら、写真が画面に持ち込む視線を引き受ける。
デジタルで描くなら、戻せること、複製できること、レイヤーで分けられることを引き受ける。
AI を使うなら、自分の外にある大量の画像と言葉の重みを引き受ける。
道具は、作者を軽くするだけではない。
作者の責任の場所を変える。
表現は、手だけで行われるのではない。
その時代に使える技術の上で行われる。
だから、絵の具を買うことはズルではない。
しかし、何も問われないわけでもない。
絵の具を買ったあと、ようやく問われる。
その色を使って、あなたは何を自分のものとして引き受けたのか。
