
5ドルの絵は、ポロックなのか - 値段はクオリティだけでは決まらない -
5ドルで買われた絵がある。
カリフォルニアの中古品店で、元トラック運転手の Teri Horton が買った抽象画である。買ったとき、彼女は Jackson Pollock を知らなかったとされる。絵は友人への贈り物にするつもりだったが、大きすぎた。売りに出したところ、周囲から、これはポロックではないかと言われる。
それだけなら、よくある話である。
古い家の押し入れから出てきた絵。骨董市で買った皿。祖父の家にあった掛軸。誰かが言う。もしかしたら、これは名のある作家のものではないか。
その瞬間、ものは変わらない。
絵の具の位置は同じである。キャンバスの大きさも同じである。昨日まで壁に立てかけられていた絵が、急に別の絵になるわけではない。
けれど、まわりの世界が変わる。
「似ている」と「である」は違う
この絵の厄介さは、5ドルで買われたことにあるのではない。
ポロックらしく見えることにも、まだない。
厄介なのは、ポロックかもしれないと言われた瞬間から、その絵が複数の値段を同時に持ちはじめることである。
中古品店では5ドルだった。持ち主にとっては、人生を変えるかもしれない絵になった。買い手候補にとっては賭けの対象になり、専門家にとっては疑わしい絵になり、美術市場にとっては扱いにくい絵になった。同じ絵である。違うのは、その絵を受け取る場所である。
ここで大事なのは、「ポロックに似ている」と「ポロックである」は違う、ということだ。
似ているものは、いくらでもある。ポロックのようなドリップ、ポロックのような抽象、ポロックのような勢い。けれど市場で値段を持つのは、似ていることではない。似ていることが、来歴、素材、鑑定、専門家の判断、売買の場を通って、ポロックであると受け取られることである。
5ドルの絵は、ポロックかもしれないと言われた瞬間に高くなるのではない。
ポロックであると受け取られるまで、価値は宙吊りになる。
値段は、画面だけを見て決まらない
値段はクオリティだけでは決まらない。
この言い方は、少し誤解されやすい。クオリティがどうでもいい、という意味ではない。画面が弱ければ、名前があっても疑われる。素材が合わなければ、どれほど似ていても止まる。ポロックらしさをまったく持たないものに、ポロックの名前は乗りにくい。
しかし、画面がよければ価格が自動的に上がるわけでもない。
作品の値段には、画面の外側が入り込む。
誰が作ったのか。いつ作られたのか。どこから来たのか。誰が持っていたのか。誰が本物だと言ったのか。誰がそれを買えると言ったのか。誰が、それをさらに売れると思ったのか。
美術の価格は、作品そのものの美しさに、交換の条件が重なったところで立ち上がる。
ここが、生活の中の「好き」と、市場の「価値が高い」がずれる場所である。
ポロックでなくても、その絵を好きになることはできる。家に飾ることもできる。毎日見て、気分が変わることもある。
しかし、ポロックであると承認されると、絵は別の顔を持つ。
それは、飾る絵であると同時に、資産になり、証明書になり、ニュースになり、オークションの可能性になる。
絵の具は変わらない。変わるのは、名前と鑑定と、それを受け取る人たちの反応である。
来歴のない絵は、市場で息がしにくい
Teri Horton の絵には、指紋鑑定の話がある。
絵の裏に残ったとされる指紋が、ポロックのスタジオにあった資料や、既知の作品に残る指紋と結びつくのではないか。そういう科学的な鑑定が話題になった。
科学は強い。けれど、美術市場では、科学だけで終わらない。来歴がない。署名がない。どのようにポロックの手元から中古品店へ来たのかが、はっきりしない。
この空白は大きい。
美術品の値段は、ものの現在だけではなく、ものの過去を買っている。誰の手を通り、どの展覧会に出て、どの文献に載り、どのコレクションにあったか。そうした記録が、作品を市場の中で呼吸させる。
来歴のない絵は、どれほど魅力的でも、息がしにくい。
それは、作品として見られないという意味ではない。市場で大きな価格を持つには、他人が安心して引き受けられる履歴が要る、ということである。
鑑定とは、作品に名前を乗せる儀式である
鑑定は、作品の中から真実を掘り出す作業である。
同時に、作品に名前を乗せる儀式でもある。
もちろん、鑑定は魔法ではない。素材分析、筆致、来歴、文献、保存状態、同時代資料。さまざまな証拠を積み上げる。だが最後には、誰がその証拠を受け取るのかが問題になる。
ある人が本物だと言い、別の人は疑う。科学的な手がかりが出る。それでも市場は動かない。
このとき、作品の価値はどこにあるのか。
画面の中にある、と言いたくなる。しかし、それだけでは足りない。価値は、画面の中にある。だが、市場価格は、画面の外で承認される。
この差を見ないと、美術の値段は分からない。
5ドルのままでも、数百万ドルでも、同じ絵である
5ドルの絵は、ポロックなのか。
この問いに、ここで答える必要はない。
むしろ、この絵の面白さは、答えが確定しないところにある。
ポロックなら高い。ポロックでなければ安い。そう短く言えば、話は簡単に見える。けれど実際には、その間に長い宙吊りがある。ポロックかもしれない絵であり、ポロックではないと見る人がいる絵であり、科学的な手がかりが語られる絵であり、来歴が弱いために市場がためらう絵であり、持ち主が高く売れるはずだと信じる絵であり、買い手が賭けとして見る絵である。
同じ一枚が、いくつもの価格を持つ。
これが、美術の値段のややこしさである。
値段は、クオリティだけでは決まらない。名前だけでも決まらない。鑑定だけでも決まらない。
それらが、交換できる形でそろったときに、値段は立ち上がる。
5ドルで買われた絵は、そのことを残酷なくらいよく見せている。
作品は同じままでも、世界がそれを何として扱うかで、値段は変わる。
美術市場とは、作品を見る場所である前に、作品を何として受け取るかを決める場所である。
参考
- Is This a Real Jackson Pollock? - Wired, 2003
- One Man's Wallpaper - The New Yorker, 2007
- The Mark of a Masterpiece - The New Yorker, 2010
