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その教祖の壺には、値段ほどの価値があるのか

その教祖の壺には、値段ほどの価値があるのか。

この問いは、少し扱いにくい。

壺そのものを見れば、ただの焼き物かもしれない。土をこね、焼き、釉薬をかけた器である。美術館に置けば誰も見向きもしないかもしれない。骨董店に持ち込んでも、値段がつかないかもしれない。

Firefly_Gemini Flash_ある宗教の、白い、教祖の壺 140265.png
Adobe Firefly で作成

それなのに、ある場所では何十万円、何百万円、場合によってはもっと高い値段がつく。

そのとき、外側にいる人間は言いたくなる。そんなものに価値はない。ただのガラクタだ。だまされているだけだ。

たぶん、その言い方は半分正しい。しかし、半分は雑である。

価値を感じた人を、先に切り捨てない

まず切り分けなければならない。その人が、壺に価値を感じたこと。その壺に、その値段を払わせること。これは同じではない。

壺を手にした人にとって、それはただの器ではなかったかもしれない。祈りの対象だったかもしれない。救われた記憶と結びついていたかもしれない。誰かに認められた証だったかもしれない。ひとりではないと思えた共同体のしるしだったかもしれない。

そういう価値を、外から簡単に笑うことはできない。

人は、物だけを買うのではない。安心を買い、所属を買い、物語を買い、自分の過去を整理するための言葉を買い、未来が少しよくなるかもしれないという気配を買う。

美術品も、茶道具も、ブランド品も、ワインも、時計も、似たところがある。原価と加工時間だけを見れば、説明できない値段を持つものは世の中に多い。

だから、壺に価値を感じた人を、ただ愚かだと言って済ませることはできない。

むしろ、その人が本当に何に価値を感じたのかを見なければならない。

価値があることと、その値段が正当なことは違う

ただし、ここからが本題である。

価値を感じた人がいる。だから、その値段は正しい。これは飛躍である。

主観的な価値は、本物でありうる。けれど、主観的な価値が、そのまま価格の正当性になるわけではない。

たとえば、ある茶杓がある。

竹を削った小さな道具である。外から見れば、ただの細い竹かもしれない。けれど、誰が削ったのか、どの家元の手が入ったのか、どの茶会で使われたのか、どの箱書きがあるのかによって、値段が変わる。

そこには共同体があり、作法があり、系譜があり、名前がある。その内側にいる人には価値が見え、外側にいる人には見えない。

美術市場も同じである。画面だけでなく、作者名、来歴、展覧会歴、批評、収蔵、売買履歴が価格を作る。見える人には見える。見えない人には見えない。

では、教祖の壺も同じなのか。

ここで急いではいけない。

構造は似ている。しかし、同じではない。