
群盲象を評す - 僕らは世界のほとんどが見えていない -
僕らは、世界のほとんどが見えていない。これは謙遜ではなく、人間の条件である。
私たちは、自分の立っている場所からしかものを見られない。背の高さ、育った場所、読んできた本、通ってきた学校、働いてきた場所、失敗した記憶、傷ついた経験、好きだった人、嫌いだった人。そういうものが、すべて視界の形を決めている。
だから、同じ作品の前に立っても、同じものを見ているとは限らない。
同じ絵を見ている。同じ彫刻を見ている。同じ展示室にいる。それでも、見えているものは違う。
群盲象を評すとは、みんなを間違いと断じることではない
群盲象を評す、という話がある。
目の見えない人たちが象に触れる。鼻に触れた人は、象とは長い管のようなものだと言う。足に触れた人は、柱のようなものだと言う。耳に触れた人は、扇のようなものだと言う。腹に触れた人は、壁のようなものだと言う。
この話は、しばしば「みんな間違っている」という寓話として読まれる。
しかし、それだけでは少し雑である。
鼻に触れた人は鼻についてはかなり正しく、足に触れた人は足についてはかなり正しく、耳に触れた人は耳についてはかなり正しい。
彼らが間違うのは、自分が触っている一部を、象の全体だと思ったときである。
見えているものは嘘ではない。ただし、全体ではない。この差は大きい。
鑑賞も、だいたい一部しか見ていない
美術鑑賞でも、同じことが起きる。
ある人は色を見て、ある人は技法を見て、ある人は作家の人生を見る。時代背景を見る人もいれば、値段を見る人も、展示室の空気を見る人も、自分の記憶と結びつけて見る人もいる。
どれも間違いではない。ただし、どれも全体ではない。
色だけを見れば、制度は見えない。
制度だけを見れば、画面の手触りは見えない。
作家の人生だけを見れば、作品がその人生からはみ出している部分を見落とす。
技法だけを見れば、その作品がなぜその時代に必要だったのかを見落とす。
逆に、時代背景ばかり見れば、目の前の線や色を見落とす。
鑑賞とは、世界の全体を見抜くことではない。
自分がいま、象のどこに触れているのかを知ることである。
「美術が分からない」は、かなり正しい
美術が分からない。この言葉は、よく聞く。たぶん、かなり正しい。
分からないのは、能力が低いからではない。作品の前に立つと、分からないものの量が急に増えるからである。
作者は誰なのか。なぜこの素材なのか。なぜこの大きさなのか。どの時代に作られたのか。何に反応しているのか。なぜ美術館にあるのか。なぜ値段がつくのか。なぜ隣の作品と並んでいるのか。
そのすべてを一度に見ることはできない。
だから「分からない」は、敗北ではなく、むしろ正常な入口である。
問題は、分からないことではない。分からないものを、つまらないものとして処理してしまうことである。
あるいは、自分が触れた一部だけで、全体を分かったことにしてしまうことである。
全部見る必要はない
全部見る必要はない。ここは大事である。
作品について、すべての知識を持つ必要はない。作家の経歴を全部覚える必要もない。美術史を一列に並べられる必要もない。技法名を言えなくても、作品の前には立てる。
ただし、何も見なくてよい、という意味ではない。見える場所を少し増やす。それでよい。
昨日は色しか見えなかったが、今日は素材が少し見えた。昨日は作家名しか見えなかったが、今日は展示室の並びが少し見えた。昨日はきれいかどうかしか見えなかったが、今日は、なぜ自分がきれいだと思ったのかを少し考えた。
それだけでも、鑑賞は進んでいる。
象の全体を見たわけではない。ただ、昨日まで触れなかった隣の場所に、少し手が届いた。
それで十分である。
よいキュレーターは、隣の触り方を教えてくれる
よいキュレーターは、正解を押しつける人ではない。
もちろん、知識はある。調査もある。作品を選び、並べ、照明を決め、動線を作り、言葉を置く。それは専門的な仕事である。
けれど、よいキュレーションがしていることは、単に「これが正しい見方です」と言うことではない。
いま自分が触っている場所の隣に、別の触り方があることを示す。
作品だけでなく作者を見て、作者だけでなく時代を見る。時代だけでなく素材を見て、素材だけでなく場所を見て、場所だけでなく制度を見る。そして制度だけでなく、もう一度、目の前の作品へ戻す。
視界を広げるとは、世界を一気に全部見せることではない。
隣にある、まだ触っていなかった面を示すことである。
よい展示を出たあと、作品そのものよりも、自分の目の置き場所が少し変わっていることがある。
あれは、かなり大事である。
発見とは、大きな宝を見つけることではない
発見、という言葉は大げさである。新大陸を見つけるような響きがあり、誰も知らなかった名作を見つけるような響きもある。しかし、鑑賞における発見は、もっと小さい。
知らなかった作家を知る。見落としていた素材に気づく。いつも通る場所に、小さな展示室があると知る。同じ絵を見ていたのに、今日は線が見える。前は退屈だった作品が、別の展示で急に見える。
それも発見である。
発見とは、世界の全体を手に入れることではなく、自分の触れる面がひとつ増えることである。昨日まで撫でられなかった場所を、今日少し撫でられるようになること。
それでよい。
自分の正しさを、小さく持つ
群盲象の話で怖いのは、見えていないことではない。
一部しか触れていないのに、全体を持った気になることである。
これは美術だけの話ではない。
人についても、街についても、歴史についても、政治についても、仕事についても、だいたい同じことが起きる。
私たちは、触れたものを世界だと思いやすい。
自分の経験を、一般論にしたくなる。
自分の好き嫌いを、価値判断にしたくなる。
自分の傷を、世界の構造にしたくなる。
それは、完全に避けることはできない。
だからこそ、自分の正しさは小さく持った方がよい。
私は、ここに触れている。
ここについては、何かを感じている。
しかし、これは全体ではない。
そう思えるだけで、少し違う。
僕らは世界のほとんどが見えていない
僕らは世界のほとんどが見えていない。
だから、鑑賞は可能である。
もし最初から全体が見えているなら、作品の前に立つ意味はほとんどない。
分からないから、見る。
見えないから、近づく。
触れなかった場所があるから、もう一度行く。
同じ作品でも、立つ場所が変われば違って見える。
同じ展示でも、誰かの言葉を聞いたあとでは違って見える。
同じ街でも、一本違う道を歩けば違って見える。
世界のほとんどが見えていないことは、欠陥ではない。
発見の余地である。
鑑賞とは、象の全体を一度に見ることではない。
自分がいま、どこに触れているのかを知ること。
そして、隣の触り方をひとつ覚えること。
それだけで、世界は少しだけ増える。
