Logo
読み込み中...
読み物一覧

群盲象を評す - 僕らは世界のほとんどが見えていない -

僕らは、世界のほとんどが見えていない。これは謙遜ではなく、人間の条件である。

私たちは、自分の立っている場所からしかものを見られない。背の高さ、育った場所、読んできた本、通ってきた学校、働いてきた場所、失敗した記憶、傷ついた経験、好きだった人、嫌いだった人。そういうものが、すべて視界の形を決めている。

だから、同じ作品の前に立っても、同じものを見ているとは限らない。

同じ絵を見ている。同じ彫刻を見ている。同じ展示室にいる。それでも、見えているものは違う。

群盲象を評すとは、みんなを間違いと断じることではない

群盲象を評す、という話がある。

目の見えない人たちが象に触れる。鼻に触れた人は、象とは長い管のようなものだと言う。足に触れた人は、柱のようなものだと言う。耳に触れた人は、扇のようなものだと言う。腹に触れた人は、壁のようなものだと言う。

Blind_monks_examining_an_elephant.jpg
日本の浮世絵師、英一蝶 (1652 – 1724) による『衆瞽象を撫ず』図

この話は、しばしば「みんな間違っている」という寓話として読まれる。

しかし、それだけでは少し雑である。

鼻に触れた人は鼻についてはかなり正しく、足に触れた人は足についてはかなり正しく、耳に触れた人は耳についてはかなり正しい。

彼らが間違うのは、自分が触っている一部を、象の全体だと思ったときである。

見えているものは嘘ではない。ただし、全体ではない。この差は大きい。

鑑賞も、だいたい一部しか見ていない

美術鑑賞でも、同じことが起きる。

ある人は色を見て、ある人は技法を見て、ある人は作家の人生を見る。時代背景を見る人もいれば、値段を見る人も、展示室の空気を見る人も、自分の記憶と結びつけて見る人もいる。

どれも間違いではない。ただし、どれも全体ではない。

色だけを見れば、制度は見えない。

制度だけを見れば、画面の手触りは見えない。

作家の人生だけを見れば、作品がその人生からはみ出している部分を見落とす。

技法だけを見れば、その作品がなぜその時代に必要だったのかを見落とす。

逆に、時代背景ばかり見れば、目の前の線や色を見落とす。

鑑賞とは、世界の全体を見抜くことではない。

自分がいま、象のどこに触れているのかを知ることである。

「美術が分からない」は、かなり正しい

美術が分からない。この言葉は、よく聞く。たぶん、かなり正しい。

分からないのは、能力が低いからではない。作品の前に立つと、分からないものの量が急に増えるからである。

作者は誰なのか。なぜこの素材なのか。なぜこの大きさなのか。どの時代に作られたのか。何に反応しているのか。なぜ美術館にあるのか。なぜ値段がつくのか。なぜ隣の作品と並んでいるのか。

そのすべてを一度に見ることはできない。

だから「分からない」は、敗北ではなく、むしろ正常な入口である。

問題は、分からないことではない。分からないものを、つまらないものとして処理してしまうことである。

あるいは、自分が触れた一部だけで、全体を分かったことにしてしまうことである。